僕はお茶が好きだ。
特に好きなのはジャスミン茶で、最近はコンビニでも売られるようになったから、よく買って飲んでいる。
夏の麦茶も好きだ。ベイシアで買った麦茶ポットに冷水を入れて、麦茶バッグを2つ入れる。これが安いので、今年の夏は常に冷蔵庫にストックしていた。
もちろん緑茶も好きだ。デスクには常に「綾鷹」のペットボトルが転がっているし、移動中に食事を済ませる時は、おにぎりと共に緑茶がある。
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だけど、ふと思った。
これだけお茶が好きなのに、僕のイメージの中には、昔ながらの「日本茶」が登場しないのだ。
急須、やかんで淹れる熱い日本茶。
小さな定食屋では決まって出てくるので、もちろん全く飲まないわけではないけど、その頻度はコーヒーのほうが圧倒的に高い。
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僕は、日本茶について何も知らないのではないか?
「日本人として」と言うと主語が大きいけれど、お茶をよく飲む1人の人間として、日本茶のことは知っておきたい……。
というわけで平成6年生まれ24歳、平成の終わりにお茶を学びます。
時代と土地をつなぐお茶
今回お話を聞かせてもらったのは、前橋にある山都園(やまとえん)。大正時代から続く日本茶の老舗だ。
まずはこのお店について紹介しよう。
昔より日本の中心地だった日本橋に、山本山(やまもとやま)という大きなお茶屋がある。このお茶屋にいた創業者が独立し、前橋の地に山都園をひらいたのだ。
しかし実はこの山本山というお茶屋、めちゃくちゃ凄いのだ。
これを分かってもらうために、まずは日本茶の歴史をおさらいしていく。
もともと中国で薬として使われていたお茶が平安時代に輸入され、安土桃山時代にはあの千利休がお茶界隈でブイブイ言わせていた。要するに日本茶のスタートはお抹茶だったというわけだ。
それが江戸時代初期、「もっとラクにお茶を楽しもうブーム」が起きる。「茶葉を粉末にしなくても、炒ってお湯かけたら美味いじゃん!」という手法が発見されたからだ。これが、いわゆる煎茶のはじまり。
そして、煎茶ブームをより巨大なものにしたのが、永谷宗円(ながたにそうえん)。
そう、お茶漬けで有名な「永谷園」のもとになった男だ。
宗円が作ったお茶はまさに完璧なもので、現在とほぼ同じ製法。それを江戸で売り歩いたのが「山本嘉兵衛」という茶商、日本橋「山本山」の原点となる男なのだ。ちなみに6代目の山本嘉兵衛は玉露を発明した偉人でもある。
そして大正時代、この山本山でトップ(大番頭)となった岡部篤三郎が、前橋で宿泊したときに山都園の創業を決意したのである。
お茶は、中国と日本、江戸と現代、日本橋と前橋をつなぐ存在だったのだね。
まるで落ち葉のような京番茶
山都園、現在の店主は3代目の岡部好弘さん。
店内にはお茶にまつわる物が所狭しと並び、どこか懐かしい香りがする。
淹れてくれたお茶からタバコのような風味がし、不思議な顔をする僕。
「これ、変わってるでしょ。京番茶っていうんだけど、京都では一般的に飲まれているものなんですよ」
日本茶はクセのない渋みの中に甘みがある、”あの味”がデフォルト……という認識が、さっそく崩された。
ふつうの番茶(ほうじ茶)は煙を逃しながら炒るのに対し、京番茶は煙ごと炒り上げる。そのおかげでスモーキーな風味がするのだ。
この独特の薫香は飲む人を選ぶように思えるが、京都では庶民がふつうに飲んでいるものだ。夏にはやかんで出し、麦茶代わりに飲まれることもある。
京番茶は、原始的なお茶だ。
ふつう、お茶の葉は揉んだり撚(よ)ったりして使うが、京番茶にはその工程すらない。もっとも単純な方法として、焚き火で炙るだけでも作ることができる。
写真を見ただけでは、これがお茶であることすら分からないだろう。
まるで落ち葉のような京番茶。地域によって「お茶の楽しまれ方」がかなり異なることを知ることができた。
お茶は、男性文化の中で発展してきた
お茶の歴史でも紹介したように、日本のお茶文化は抹茶から始まった。
いまや「茶道」といえば女性が雅な態度を学ぶようなイメージがあるが、実は男性、武士のなかで広がっていった文化であるそうだ。
「お茶の世界に女性が参入したのは、明治から。文明開化の前は男性のものだったんだよ。武士が武士として生きる、覚悟を決めるような時に飲むものだった。」
日本の美意識のひとつ、侘び・寂び。余計なものを削ぎ落とし、その中から豊かさを感じ取る…という考え方だ。
お茶とともに発展していった概念であり、日本におけるお茶文化の様相を分かりやすく表している。
「それに対して、イギリスの紅茶文化は全く別物。アフタヌーンティーといえば、豪華なお菓子がついてくるでしょ。いわば武士道と騎士道の違い。だけど、日本もイギリスも、お茶の時間を大切にしていた。”お茶にしましょう”と言ったら休憩、会話を楽しむ時間なんです。」
お茶の時間。
これは単に日本茶を飲むための時間を指すわけではなく、お菓子を添えたり、一息ついたりする「区切り」の時を言う。
現代人と親和性の高い「焦り」「不安」「余裕の無さ」というワードは、お茶の時間を失ったことで表面化しているのかもしれない。
お茶から見えてくるクラフト性、これからの可能性
日本茶の産地として最も頭に浮かびやすいのは静岡県だろう。農林水産省の統計によると、実際に静岡県は日本の3分の1の茶葉を生産しているマンモスお茶県だ。
静岡県で作られているのはもちろん静岡茶であり、埼玉では狭山茶、京都では宇治茶。お茶の種類は産地で語られることが多い。
しかし保存技術が現代ほど発達していなかったころは、茶葉をブレンドすることで季節ごとに飲みやすい味をつくっていたのだ。これをお茶の世界では合組(ごうぐみ)と呼ぶ。
このブレンドによって、お店ごとのオリジナルな味、「◯◯印のお茶」が確立されていった。
「日本茶はそもそも、嗜好品なんだよ。コーヒーや香水が原料をブレンドするように、日本茶もブレンドして銘柄を仕上げていた。でもそれも昭和中期までで、今は少なくなってきているね。どうしても手間がかかるから」
いま、個人のコーヒーショップやクラフトビールなどが流行している。その理由は紛れもなく、自分だけのお気に入りの味を見つけることができるからだ。
大量生産によって、安定した質の商品が安く・簡単に手に入るようになった。それはそれでありがたいのだけど、やっぱり面白くない。そう感じた若者たちは、マイベストを探して今日も街に出るわけだ。
お茶の合組は、いわばクラフト・グリーン・ティーを作っていたということになる。そうなれば、現代にお茶文化が復活する可能性を感じてしまう。
ペットボトルが普及してから、「日本茶」は一気に縮小していった。
「以前と比べて煎茶が飲まれなくなった」だけではない。お茶の時間や合組といった文化ごと、無くなりかけている。
「何にせよ、美味しいものを知らないのはもったいないことだよね。もとは薬から派生してきたわけで、飲まない手はないわけ。だけど、こちら側としても楽しみ方を提案していく必要があるとは思う。若い人に『これ、いいな』って思ってもらえたら嬉しいよね。」
その言葉の通り山都園では、お茶のパッケージなどに若者に合わせたデザインを採用している。
このヒゲのおじいさんは、創業者をイメージしたキャラクター。高崎市に事務所を置くマニアッカーズデザインに依頼したそうだ。
お茶屋として、大人として、若者たちに「良いもの」を届けようと工夫する。いつまでも心に刻みたい姿勢だ。
おわりに
予想以上に深く複雑なお茶の文化。そして、苦い現状。
長い歴史の中で確立・更新されてきたものをここで絶やしてしまうのは、なんだかもったいない気がする。
同時に、「合組」によるクラフト・グリーン・ティーは、現代の若者に刺さる可能性を残している。
文化を残してきた先人たちに感謝して、これからは僕たちが責任を持って継承していきたい。
もちろん形が全く同じである必要はない。これまでも、時代に合わせて変わってきたのだから。
なんてことを考えていたら、頭が熱くなってしまった。休憩。お茶の時間にしよう。
まずは、急須と湯呑みを用意して。
山都園
住所:前橋市千代田町2-3-16
営業時間:9:30〜18:30 日曜定休
http://www.yamatoen.info/index.php
「お茶の歴史」参考ページ:お茶百科
文・写真=市根井(gooma編集長)